大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

盛岡地方裁判所 昭和32年(わ)78号 判決

被告人 高橋サメ

主文

被告人を懲役五年に処する。

未決勾留日数のうち一五〇日を右本刑に算入する。

理由

(事実)

被告人は岩手県岩手郡松尾村松尾で農業を営む高橋春一郎の三女として生れ、居村の松野尋常小学校を卒業したのち家事の手伝いや農業に従事していたが、昭和一二年一二月末頃盛岡市八日町で焼麩の製造販売業をしていた中村徳助と事実上の婚姻をして同棲生活を始め、同一三年一二月一六日結婚の届出をした。しかるに、その後間もなく社会情勢の急変に伴い徳助は企業整備のため右焼麩の製造販売業を廃止することを余儀なくされ、そのためやむなく他の焼麩製造業者のもとに職人として雇われたり、或は海軍に徴用されたりして働き、戦後は農業に従事したりなどして辛酸をなめた末ようやく昭和二九年七月頃岩手郡西根村平館第一八地割一一番地の七(国鉄花輪線平館駅前)に住居兼用の工場を新築し再び長年修業した焼麩の製造販売業を始めることになつたが、この間被告人はよく夫徳助を助けて平穏かつ円満な夫婦生活を続け、同人との間に二男三女の子供を儲けるにいたつた。しかして、徳助が営業を再開するにあたり使用人を雇わなかつたので、被告人も家事の傍らその仕事を手伝い、特に多忙なときには自転車やバスなどを利用して得意先に製品を卸し歩いていたが、そのうち昭和三〇年六、七月頃二戸郡安代町荒屋新町で菓子の製造販売をしていた田村金蔵(その後大森と改姓し、更に米田と改姓し現在にいたる)と知り合い同人と親交を重ねているうち遂に同年一〇月頃から同人と人目を忍んでしばしば密会し情交を結ぶような間柄になつた。しかし、やがて昭和三一年八月初旬頃、被告人と金蔵との間の右のごとき不倫な関係が偶然の機会から徳助の知るところとなり、そのため被告人は徳助と同居して行くことに精神的苦痛を感じ、併せて金蔵に対し深い愛着を抱いたため、同年八月一二日頃徳助方を出奔して金蔵の許に赴き、同人と相携えて岩手郡滝沢村滝沢第二四地割二九〇番地の一一角掛万助方の六畳間一室を借り受けて同棲生活を始めた。これを知つた夫徳助や親族の者達は事態を穏便に納めるため被告人に対し金蔵と別れて夫徳助及び子女らのもとに復帰するよう再三にわたつて説得したけれども、被告人は金蔵に対する愛情を断ち切れずこれに応じなかつたため、やむなく同年同月二七日夫徳助と協議上の離婚をすることになつた。かようにして、被告人は約二〇年間生活を共にしてきた徳助と離別し、かつ同人との間に生まれた五人の子供を徳助のもとに残して金蔵との同居生活を始めたが、そのうちに被告人は金蔵の胤を宿し、一方暫くの間同棲しているうち次第に経済的にも困窮するようになつたりなどした関係から金蔵との間に自ら感情的な対立が生じて不仲となり、同人から別れ話を持ちかけられ、昭和三一年一二月下旬頃被告人自身としては必ずしも本意ではなかつたけれども同人と別れることになつた。その際、金蔵は被告人に対し姙娠中は生活費を送り、また分娩費用は金蔵が負担し、出生した子供は同人において引取りこれを養育するなどのことを堅く約した。ところで、他方、金蔵は被告人と不仲になりつつある頃、岩手郡松尾村野駄第一六地割八〇番地の三農業米田高元の五男、亡、精の妻であつた米田ヨシエと次第に懇ろとなつて肉体関係を結び、被告人と別れると直ちに右高元方に赴きヨシエと同棲を始めたが、いつたん別れた被告人との関係を断ち切ろうとせず、前記同棲生活を清算したのち身重の身でありながら盛岡市内の食堂で炊事婦として働いていた被告人の間借り先などにときどき訪れて引続き情交関係を持続していた。

右のごとき状態を続けているうち、被告人が昭和三二年三月一〇日頃松尾村野駄に金蔵を訪ね懐姙中の胎児の処置につき相談した際、金蔵の言に従い同人と共に松尾村直営診療所に入院中であつた米田ヨシエに会つたが、その際ヨシエからは、「別れた親父に何用があつてきた、これ(金蔵の意)は俺の親父である。本妻からも親達からも許しを得て貰つてきたのである。お前は何も来ることはない。子供は生れたら引取ることにしてある。誰もおなかが大きくて休んでいる人はない、産むまでみんな稼いでいる。」などと、金蔵からは、「昼中、腹をひろげて道を歩くな、人目が悪い。せつなくなれば頼つてくる。俺が行かなくてもお前にはいい男があるそうではないか、腹の中の子は誰の子だか判らない。」などとこもごも面罵された。次いで被告人が懐姙中の胎児を人工流産させるため昭和三二年三月一八日から八日間ばかり岩手県立盛岡病院に入院した際には、当初金蔵だけが付添看護に来てくれるよう希望していたにもかかわらず、同人のほかにヨシエまで付添に来たが、両名は自炊のための準備は何もして来ず、自分達の自炊費用や汽車賃まで被告人に支払わせたばかりでなく、入院の保証人となることを頼んでもこれに応ぜず、付添中両名で飲酒したりなどしてろくろく親身になつて看護をしなかつた。さらに被告人は右病院を退院したのち、盛岡市大工町八六番地沼田タカ方の三畳間一室を借り受け、同市長町一一五番地飲食店こけし食堂こと池田ふみ子方に炊事婦として雇われ、右沼田方から通勤していたが、昭和三二年六月一五日午前九時頃前夜から泊りこんでいた金蔵が被告人の間借りしていた右三畳間で被告人と共に寝転んで話しあつているところへ、金蔵の行先を案じて探しにきたヨシエが乗り込み、その状況を目撃するや激昂のあまり、言葉も荒々しく金蔵の態度を詰り、また被告人に対しては、「この腐れ南瓜女、人の親父をとつて、声といえば上関の長助に似たような声を出している。父さん(金蔵の意)を欺して山を売つたらその金をしぼつてやると云つたそうではないか。」などと散々罵倒したにもかかわらず金蔵は被告人のため何らの弁解或は庇護をもしようとはせず、ヨシエの悪口雑言をたしなめようともしないまま、同女に伴われて帰宅していつた。

しかして、被告人は叙上のごとき金蔵やヨシエの自分勝手な言動に対していたく不快の念を抱き、うつうつとして日を送つているうち次第にその念が昂まり、金蔵に会つて一言文句を云つてうつ憤をはらそうと考え、昭和三二年六月一八日午後五時四〇分頃盛岡駅発の下り列車に乗り、同日午後七時頃花輪線大更駅で下車し、それから単身徒歩で暗夜を田頭、平館などを経て同日午後一〇時過頃金蔵とヨシエが同棲している前記米田高元方屋外にいたり、該家屋の内部の模様を板戸の隙間や節穴から覗き見したりなどしたのち右家屋と屋外の便所との中間にある稗を積み重ねた俗称「ミオ」の近くに叺を敷いてこれに腰をおろし、金蔵が戸外に現われるのを待つていたが、そのうち再び前記のごとき金蔵の不誠意極まりない冷酷な仕打ちやヨシエから面罵されたことを想い起して、憤まんの情にかられ、これをはらすためいつそのこと同人等の居住する住宅を焼き払つてやろうと決意し、「ミオ」に放火すればそれに近接している該住宅に当然延焼するであろうことを認識しながら、所携のマッチをすつて右「ミオ」の下部に点火して放火し、その延焼作用によつてヨシエ等の現住する米田高元所有の木造茅葺平家建住宅一棟四二坪余を全焼させて、その目的を遂げたものである。

(以下略)

(裁判官 降矢艮 岡垣学 山路正雄)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例